アデレード暮らし

2001年から南オーストラリア州のアデレードで暮らし始めた私の記録

2020年のアデレード生活はこんな感じでした

今年はこんな一年でした:(アデレードの様子を自分の記憶を元に調べてみました)

私の住んでいるアデレード南オーストラリア州(つい最近、はやぶさ2が切り離したカプセルが帰って来た州)の州都です。地元民が多く、乗り入れている国際線は現在4社くらいでしょうか。対岸は、遠いですけど南極で、世界の国々から遠いところにある地方都市です。州の面積は広いですがほぼ砂漠で、隣州との出入口は全部で12ヶ所だそうです。地図で見てみましたが、西(パース方面)に1つ、北(ダーウィン方面)に1つ、東(シドニーメルボルン方面)に10か所になる計算です。それをふまえて・・・

オーストラリアでは新型コロナウイルスのことをCOVID-19(コービッドナインティーン)と呼んでいます。日常会話の中では19を略してCOVIDと呼んでいます。

このCOVIDがオーストラリアで最初に確認されたのは1月25日で、武漢からメルボルンへ戻って来た帰国者でした。

この頃、アデレードでも日本のダイヤモンド・プリンセス号の集団感染のニュースは頻繁に報道され、「ダイヤモンドプリンセス」という単語は毎日聞いていましたが、遠いところで起きている出来事という認識でした。

オーストラリアがパンデミック宣言をしたのは2月27日で、WHOの世界パンデミック宣言(3月12日)よりも前でした。

アデレードでCOVIDが身近なものとなったのは3月中旬以降でした。感染者を出したクルーズ船ルビー・プリンセス号(乗員乗客3,800人)がシドニーに向っているという第一報のあと、ニューサウスウェールズ州(NSW)の保健省は感染リスクの低いニュージーランドからの帰国だということで全員の検査結果が出る前に下船を許可。メディアが報道している目の前で下船が開始され、乗客が公共交通機関や飛行機を使って国内各地へ戻っていく映像が流れました。その日を境に次から次へとルビー・プリンセス号の乗客だった人達の感染が報道されるようになりました。クルーズ船と直接関係があった130人以上が陽性、高齢者が重症化、うち28人が死亡、という事態になった時には各州で州境封鎖が始まっていました。どうして検査結果を待たずに下船させたのだとNSW州は大バッシングを受けました。

南オーストラリア州ではワインの産地バロッサバレーでクラスターが発生。アメリカからのツアー客が発生源でした。隔離中のツアー客の内、2人が無断でこっそり帰国してしまったニュースに地元民は激怒していました。

3月24日(火)4pmから国境・州境封鎖と都市封鎖(ロックダウン)が始まりました。発表から封鎖までに48時間なかったような気がします。キャンベラに住む大学生の長女を帰らせるのか否かという判断に迫られました。アデレードに帰ってくるならば大至急で飛行機を手配しなければなりません。総合的に考えた結果、キャンベラにとどまることを選びました。結局この年末年始もキャンベラから戻ってこないので、長女には2月以来会っていません。

高校生の次女は、イースター休暇と秋休みが近かったこともあって、自宅でオンライン授業を1週間ほど受けた後、いつもより長い3週間ほどの休みに突入しました。普段からコンピューターやディバイスを用いて授業をしているので大きな混乱はありませんでしたが、年齢の低い小学生にとっては自宅でのオンライン授業は大変だった、と後々耳にしました。

私の場合、通勤目的の外出は許されていましたので、上司の自宅で勤務となりました。

いつの間にか日本からの航空便が停止となっていました。日本から手紙が船便で送られてくる状況に「明治時代?」と思ってしまいました。この状態は11月まで続きました。

日本で勤務中のダンナは5月のゴールデンウイークにアデレードに帰ってくる予定でしたが、国境が開かず、8月と12月に予約していた飛行機もキャンセルとなってしまいました。国際線の数はゼロではなかったのでオーストラリアに帰って来れなくはなかったのですが、14日間の強制ホテル隔離。しかも自己負担($3000ドル)。今年の帰宅は叶いませんでした。

そんなわけで、今年は家族全員が揃うことはありませんでした。

話はそれましたが、その後、南オーストラリア州内でのCOVID対策は順調に機能し、私の職場も5月末にはオフィスにもどりました。州内の感染者は海外からの帰国者ばかりである状況が長く続き、人々の意識はいつどの州の州境を開けるのか、ということに集中していきました。

まずは北と西の州境が開きました。そしてタスマニア州クイーンズランド州も開きました。しばらく開かなかったのはNSW州とビクトリア州でした。長女のいるキャンベラはNSW州の中にある首都特別地域なのでなかなか開きませんでした。ようやく開いたのは予定していた帰省を諦めて航空券をキャンセルした直後の9月でした。

次にNSW州が開きました。最後まで開かなかったのはビクトリア州で、クラスターが発生したためでした。それでもクリスマスが近づき、ビクトリア州も開けよう、と決めた矢先の11月上旬、我が州、南オーストラリア州クラスターが発生してしまいました。

クラスターの発生源が特定され、全感染者の行動履歴が追跡され、保健省が対象施設と日時を次々と発表して人々を自宅隔離させていく日々が続きました。例えば、「11月10日(火)午前10時15分から45分までの間に渋谷のアップルストアに入店した人はすぐに検査をして自宅待機をしてください。」といった具合です。そんな中、再びロックダウンが決まりました。次女は期末試験を控えていたのですが延期となり、火曜日に学校がすべて終わるはずだったのに金曜日まで学校に行かなければならなくなった…とがっくりしていました。

南オーストラリア州の保健省は大変強い権限を持っているのですが、そのお陰と、人々の「いつもみたいなクリスマスを過ごしたい」という強い願いが爆発的感染拡大を防ぐことに繋がったように感じました。結局ロックダウンは3日間で解除になりましたが、私が仕事に戻ったのは10日後のことでした。

12月1日(火)、ついにすべての州境が開きました。保健省だけがアクセスできるCOVID追跡システムも導入が決まり、小売店やレストランやカフェでのQRコード読み取りが始まりました。入店する人は全員QRコードを読み取らなければなりません。私も娘も南オーストラリア州政府のアプリをダウンロードして、お店に入る前にはピッとQRコードを読み込んでいます。

このまま無事クリスマスを過ごしたいと多くの人が願っていた矢先、NSW州でクラスターが発生してしまいました。シドニー北部のクラスターだったのですが、結果的にNSW州との州境は制限付きで閉じられてしまいました。12月21日(月)0時のことでした。長女がちょうどその週末にシドニーに遊びに行っていたのですが、キャンベラもNSW州との境界を封鎖すると発表があり、大慌てで予定を変更してキャンベラには23時30分に滑り込むことが出来ました。車で移動していたことが幸いでした。シドニー~キャンベラ間は車で3時間程だそうです。

12月24日(木)、南オーストラリア州をロックダウンさせたクラスターの終息宣言が出ました。多くの人が近しい人達と集まることが出来て喜んでいるのではないでしょうか。今年はどこへも行けなかったね、来年はいい年になると良いね、そんなメッセージを家族や友人達とSNS経由でやり取りしました。

今日はクリスマス。青い空が広がっています。

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新しい年が希望に溢れた年になりますように。