アデレード暮らし

2001年から南オーストラリア州のアデレードで暮らし始めた私の記録

⑪うちの子をバイリンガルに!の軌跡 長女7年生(中1)

 7年生になりました。小学校の最上級生です。生徒会の役員に立候補して、副キャプテンに選ばれました。全校集会で司会をしたり、先生のサポートをしたり、学校代表で校外へ出かけることが多々ありました。

 ナルニア物語(英語)のDVDを見て面白いと思い、学校の図書館で本を借りて読みました。日本語のパーシージャクソンが補習校の図書室にあり、なぜか2巻目を借りてきて読んで面白いと思い、英語版を探して1巻から読みました。
 
 この頃、映画館で映画を見ることを覚えました。トワイライトシリーズが現地校の女子の中で流行ったので本を読んでいたところ映画が公開され、お友達と見に行きました。パーシージャクソンの2作目が公開されたのもこの頃です。
 
 訳本ばかり読んでいないで、日本人が書いた本をもっと読みなさいと何回も言ったのがこの時期です。訳本は、純粋な日本語の文章と比べて、文の流れが異なります。日本語を学ぶならば日本人が書いた小説を読むべきだと私は考えます。けれどもちっとも日本人が書いた本を読みません。
 
 英語で考え、英語で話し、英語を書く機会が圧倒的に増え、娘の書いている日本語の作文を読むと、なんだか英語訳のような印象を受けるようになりました。話し言葉もなんだか英語のような構成になってきました。「そして」という単語が会話の中に頻繁に出てくるようになりました。英語で「and」を頻繁に使っているのを聞いて、なるほどなあ・・・と思いました。普通、子供が会話の中で「そして」を連発しません。「そして」を使うのは書き言葉です。英語の直訳も増えてきて「ぷっ」と笑えることが増えました。
 
 スポーツは相変わらず水泳を週一回1時間、部活のように黙々と泳ぎます。コーチや友達と会話をするのがとても楽しそうでした。
 
 日本語を使うのは、自宅と日本語補習校だけですが、嵐が好きになって、「プラチナデータ」の本を読みました。「VS嵐」とか「嵐にしやがれ」というテレビ番組を録画して送ってもらい、再び見るようになったのもこの年です。(小学4年生の時に日本に逆留学した時に見ていました。)彼女が購入した人生初CDは嵐のLOVEでした。ただ、誰とも嵐の話が出来ず、現地校の友達に度々説明したり音楽を聴かせたりしていました。
 
 NAPLANの全国テストを受けました。3,5,7,9年生が受けるテストです。英語の成績は、まったく心配のないレベルに達していました。算数の成績は、グラフからはみ出るほど良く、教頭先生が「グラフからはみ出るくらい成績が良かった生徒は高校へ連絡して特別プログラムをお願いするんだよ。だからそうしておくね。」とおっしゃいました。
 
 そうです。8年生からは高校へ通います。高校選びを終え、高校が決まったのが7年生の2学期でした。同じ小学校からP高校へ行く生徒は一人もいませんでした。大多数がM高校へ行くと知り、自分もM高へ行きたいよぉ~~と心が揺れていたのも事実です。
 
 8年生になれば勉強も難しくなり、学校を休めばそれだけ勉強も遅れるだろうな、今年が最後かもなあ、と思い、4月と10月に2度、一時帰国をして日本の中学校へ入れてもらいました。授業は問題なく理解出来ました、10月の帰国時はちょうど中間テストの期間で、一週間の準備の後に全教科(5教科)試験を受けました。アデレードでは補習校で国語と数学と地理を習っているのですが、教科書が同じだったのは数学だけ。理科と英語に関しては全くやっていません。数学75点、国語63点、社会(歴史&地理)36点、理科33点、英語85点。教科書が同じですでに補習校で習っていた数学くらいは90点以上を取って欲しかったというのが本音ではありますが、いやはや、1週間の準備だけでよくがんばったと思うようにしました。本人としては、人生初の屈辱的点数ばかりだったようで、二度と試験期間中に帰国はしたくないと言っていました。
 
 いよいよ日本語と英語の両立が難しくなってきた、そう思った一年でした。