アデレード暮らし

2001年から南オーストラリア州のアデレードで暮らし始めた私の記録

②うちの子をバイリンガルに!の軌跡 長女2歳

うちの子をバイリンガルに!と昨日日記を書いたのだけれど、その後、バイリンガルとバイリテラルがあると知りました。

バイリンガルっていうのは、二ヶ国語を話す。
バイリテラルっていうのは、話すだけではなくて、読み書きまで出来る。

あらま。
違うんだ。

ということは、私が求めているのは「バイリテラル」だ。
話すだけじゃだめ。

でも、これからもバイリテラルバイリンガルという意味で、バイリンガルの方を使っていきます。

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さて、わが子が2歳になった時はどう過ごしたか、ですが、
2歳は、思い返せば「繰り返し」の年でした。
母語を確立させるための年だった気がします。
子供が劇的に話すようになり、会話も出来るようになり、私達も面白がって話しかけました。

しまじろうが大好きで、しまじろうのビデオを一日に何回も何回も見ていました。
同じ本を何度も何度も繰り返し眺めていました。記憶するまで何回も何回も飽きずに見たり読んだりしていました。ものすごい集中力だと思います。そして私も同じ本を何回も何回も読まされました。(そのせいか同じDVDや本を何回も何回も記憶するまで読んだり見たりする癖がついてしまったようで、8歳になってもそれは変わっていません。)

日本語に自信がついてきたからでしょう。英語の単語もぽつぽつ出てきました。
それでも同じ年のオーストラリア人と比べたら遅れています。
日本人としては二歳児並の言語力ですが、オーストラリア人としては一歳児並でした。それでも気にしませんでした。とりあえず日本語が先でしたから。どうして日本語が先かというと、人間、主となる言語がないと、他の言語も伸びないと思ったからです。何かひとつ、自分の言葉はこれだ!という言語があるべきです。そして次の言語はその主たる言語より上手くなることはないのです。ということは、主たる言語のレベルが高くならないと、総合的に語学力が伸びない。というわけで、母語の能力は高ければ高い方が望ましい、と思ったからでした。そうするためにも、日本語力の確立と言うのは絶対条件でした。(今でも同じ思いです。)

かといって、英語が嫌いになってもらっては困ります。
保育園(託児所のことをそう呼んでいました)では熊はベーというんだよ、とか、保育園ではこういう、ああいう、という会話が出てきたので、見せる映像に、英語の番組を取り入れたのもこの年からでした。
偶然、日本から送られてくるビデオの中にミッフィーが入っていて、同じものをオーストラリアのテレビでも英語で放送していました。これは便利でした。同じ映像を別の言語で見る。せっせとオーストラリアでやっているミッフィーとトーマス、それからオーストラリア版のおかあさんといっしょを録画しては見せていました。

同時に、お稽古事と称して、英語の環境をさらにふやしました。リトミック教室です。
こちらは親と参加しますから、一人で過ごさなければならない託児所と違って、精神的に楽だったようです。跳んだり跳ねたりしながら、英語で教わることに抵抗を覚えないように、英語だって楽しいんだよ、日本語と何も変わりはないんだよ、ということをわかって欲しかった、というのが親の意図でした。

それから、これは私が苦労したことのひとつですが、オーストラリアでよく歌われる童謡をせっせと覚えました。日本の童謡は幾らでも口からでてきますが、英語の童謡は全く知りませんでした。託児所ではもちろん、リトミック教室でも当然のように英語の童謡が出てきます。親が歌わないのに子供に歌えとは言えません。必死で童謡の本を買って練習しました。


2歳児は忙しいです。
色んなことをしなければなりません。
鉛筆を持つことを覚えたり、
はさみを使うことを覚えたり、
トイレットトレーニングだって始まるし、
上手に自分で食べたり飲んだりしなければなりませんし、
あいさつだって、
友達との人間関係だって覚えていかなければなりません。

精神的にもとても成長する年です。
自分だけではなく、相手のことを気遣うことが出来るようになる年です。
性格形成にとっても大変重要な年です。

言葉だけに気をとられている訳にはいかない年齢でした。

ですから、言葉に関しては、

言葉を嫌いにならないように、
英語を嫌いにならないように、
日本語を嫌いにならないように、
本が好きになるように、
歌が好きになるように、

本人が何かしたら大げさなくらい褒め称え、やる気が持続するように努めました。
そして、本人と一緒に同じ事をしました。
子供はお母さんと一緒に何かをすることが大好きですから。

こんな感じで2歳が終わりました。